そのとき、倉峰は焦っていた。
時刻は午前二時四十八分。もう三月も終わるというのに、その日は真冬のように寒い日だった。
いや、朝方だから多少は寒いものなんだろうが、この寒さは少し異常気象だった。
こつんこつん、と足音を響かせながら、ひっそりとした裏道を歩く。
ちかちかと消えそうな街灯の明かりに照らされるゴミ捨て場の前を横切って、倉峰は必死に歩いていた。倉峰の額には汗が浮かんでいた。手にはシンプルな白い鞄と一緒に上着が抱えられていた。
息を吐けば白くなるくらい気温は低いのに、倉峰は寒さを感じていなかった。否、寒さを感じるだけの余裕がなかったのだ。

倉峰がここまで余裕をなくしているのは、勤め先の会社での、ちょっとしたトラブルが原因だった。
ちょっとしたトラブルというか、秘密ごとというか。
ともかく、人には絶対に知られてはいけない倉峰の秘め事が、なぜか会社の全パソコンにメールで一斉送信されていた、つまるところ社員全員に何者かによって暴露されてしまったという大事件が発生してしまったわけで。
もちろんそのメールは倉峰のパソコンにも届いていて、倉峰も自身の目でしっかりとそのメールを読んだ。倉峰は激怒するでも取り乱すでもなく、ただその事実が信じられなかった。真っ先に嘘だ、と思った。
しかし実際にメールは送信されているわけで、嘘なんかでは決してなくて、だんだんと社員たちの視線が感じられて、囁き声まで感じられて、いたたまれなくなった倉峰はその場をあとにしたのだった。
あとにしたというかなんというか、実際のところ泣き叫んで飛び出したといったほうが正しいのかもしれないが。
まぁその後、泣き叫んで飛び出したわけだから当然何も持っていないし、何より社員制服のままだった倉峰は、私服に着替えたかったし、カフェかどっかに入って一息つきたかったがそれも叶わず、しかたなく格好悪い薄紫色の社員制服を身にまとったまま、しかも涙でマスカラやらアイシャドーやらが落ちた酷い顔のまま、会社近くの公園にある公衆トイレで時間を潰したわけであった。
倉峰が飛び出した時刻午後四時三十分から、大体の社員がいなくなったであろう時刻午後十一時二十分までの、長い時間を、倉峰は公衆トイレと共に過ごしたわけである。
そしてこっそりと会社に戻りこっそりとやり残した仕事を片付けこっそりと私服に着替えこっそりと化粧も済ませこっそりと会社をあとにしたのが午前二時ちょっと過ぎ。
驚くべきことに会社にはまだ人が残っていたのだが、倉峰はなんとか誰にも逢わずに帰路につくことができた。

そして現在。
倉峰は大通りにでて、横断歩道で信号待ちをしていた。
倉峰が一心不乱にこの世における電子メールの必要性について脳内審議している間に信号は赤から青にかわったらしく、周りにいる人たちがまばらに歩き出した。
さすがは都会。こんな時間でも人はそれなりにいるのだ。車の通りも多い。まぁ場所によるけれど。
倉峰は歩きながら段々思考がおかしくなってくるのを感じた。
もうどうでもいい、どうでもいいのだ。
本当はどうでもよくなんかなくて、そんなこと倉峰自身が一番わかっているのだけれど、自分にそう思い込ませないと辛かった。明日の会社のことやこれから先のことを考えると耐えられなかった。
涙がぽろぽろと零れるのを感じた。
また化粧が落ちて化け物みたいな顔になっているのだろう。その証拠に、向かい側から歩いてくるホームレスのおじさんが倉峰の顔を見て、目を見開いた。
もういい。化け物は化け物らしく生きてやろうじゃないか。
倉峰は通りすがり、近くにあった街路樹に思い切り鞄をぶつけた。葉っぱがふってきて顔にかかった。真っ白い鞄に茶色いあとがついた。ああ、お気に入りの鞄だったのに。
地面に落ちた鞄を拾って思い切り叫んだ。腹の底から叫んだ。
それから走った。周りの視線なんてどうだっていい。
走って、走って、駅前の交差点まで走って、交差点の信号が丁度青にかわる。
結構な数の人が渡る横断歩道に突っ込んだ。叫びながら突っ込んだ。
横断歩道をわたる、多くの人が振り向いた。
多くの人が倉峰を驚きの視線で見つめ、その後その視線は軽蔑したものへとかわった。
倉峰はふと目をつぶった。どうせなら目をつぶって横断歩道を渡りきってやろうと思ったのだ。
この駅前の横断歩道を目をつぶって走ってわたって、しかも誰にもぶつからなかったとくれば結構な快挙だ。自慢できる。自慢したってどうにもならないのはわかっているけれど。
倉峰が横断歩道を渡ってから四度目の叫び声をあげようとしたその時、
「うわっ?!」
倉峰ではない叫び声とともに、倉峰は何かにぶつかった。

ゆっくりと目を開くとそこには、
「いてて…。お姉さん、ちょっと酔っ払いすぎじゃない?」
そういって訝しげに眉を潜める、男の子。



その先、き暗
(「怪我はない?ないならとりあえずボクの上から退いてくれる?」)



(続く!)(だらーっとした感じになった…そんなつもりなかったのになぁ)2008/01/28

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