その日は夏の暑い日でした。
けれど、夏の代名詞ともいえる青々とした空も、それに映える入道雲も、ボクの頭上には広がっていませんでした。白く光り輝く太陽も今はなくて、空は黒々とした雲に埋め尽くされていました。
太陽は出ていないのに、熱くて、むしむしとしていました。
顔にあたる風がべたべたしているような気がします。
たくさんの汗がボクの額から流れ出ました。
息苦しいと思いました。外に人はいなくて、空はあんなにも広いのに。
さっきよりも風が強くなってきました。
でもその風も、全然ボクの体温を下げてくれるような涼しい風ではなくて、ぬる、とするような、あまりあたりたくない、息苦しくて気持ちの悪い風でした。
蝉の声がいつもより静かに聞こえます。
辺りが暗くて、昼間なのに、まるで夜のように感じました。
外にはボク以外だれもいなくて、ゴーストタウンというのはこういうことなのかぁ、と暑さで鎔かされた頭でぼんやりと思いました。

ちりん、と小さく鈴の音が鳴って、ボクの目の前の道に黒猫が現れました。
黒猫は道の途中で立ち止まって、ボクの方に顔を向けました。
ボクと黒猫は目を合わせて、そのまま数秒の間見つめあいました。
暫くすると、黒猫はにゃあん、と鳴き、しっぽをゆっくりと横に大きく振って、ボクの目の前を横切っていきました。ボクは黒猫の歩いていったほうを目で追って、黒猫の姿が見えなくなってから再び歩き出しました。
そういえば、目の前を黒猫に横切られると縁起が悪い、という俗信とも迷信ともわからないような言葉があります。ボクはどちらかというと迷信だと思っている人間です。だって、英国だかどこかの国には、目の前を黒猫に横切られると金運が上がる、という、これまたこちらも俗信だか迷信だかわからない言葉があるのですから。もしもそれが俗信なら、国によって目の前を黒猫に横切られる事象についての見解に差異があってはいけないと思うのです。
そういうわけで、今ボクは目の前を黒猫に横切られましたけれど、別にそのことを少しも気にかけてはいないのです。いや、なんか逆に気にかけているみたいな感じになっていますけど、本当に、気にしてなんていないのです。これっぽっちも。たとえ、さっきの黒猫がしっぽを横に振って、ボクに不快の念を示したとしても、全く。

灰色の地面に黒い水玉が出来ました。水玉はあっという間に地面を埋め尽くして、地面はもう水玉ではなく真っ黒に染まっていました。
上を見上げると、たくさんの黒い雲の中から水滴がとめどなく零れ落ちてきていました。
ボクは右手に持っていた折り畳み傘を開き、そのまま歩きだしました。
今日は数年ぶりの親戚での集まりがあります。母方の実家に集まることになっています。
小さい頃にたくさん遊んだいとこ達や、一人暮らしをはじめてからめっきり逢う回数が少なくなった歳の離れた弟達とも久しぶりに顔を合わせる予定です。
ボクの、傘を握っている右手とは違い、横にぶらさがっている左手には細長い箱が握られています。
ここにくる途中に、なにかお土産でも、と思ってドーナツ屋さんで買ってきたドーナツでした。
雨で濡れないように気をつけながら歩きます。
小さい頃によく、庭の木になる甘柿を勝手に食べて怒られた粟生さんの家の角を曲がると、長いながい石段が目の前に広がりました。
ここは、住所こそ都会を語っていますが実際は都会とはかけ離れた、のんびりとした時間が流れる田舎町です。
石段をゆっくりと登っていきます。
首から汗が流れて、上半身を下っていきました。
その感覚が妙に気持ち悪くて、傘を持っている手で身体を擦りました。
身体に張り付くTシャツは既に雨や汗で濡れていて、いまさら汗が一滴しみこんだところで色の変化はありませんでした。
石段を三分の二ほど登ったところで一息つくと、横にあるわき道からにゃあん、という聞き覚えのある声が耳に入ってきました。
鈴の音は大粒の雨音にかき消されて聞こえませんでしたが、なぜだかにゃあん、という声だけはボクの耳に届きました。
声のするほうをむくと、先ほどの黒猫がいました。
雨宿りのつもりなのか、きちんと木の下で丸くなっています。
しかし、風は強く雨は激しいため、あまり雨宿りは意味を成していないように思えました。
現に黒猫はびしょ濡れでしたし、その綺麗な毛並みは水滴のせいでべたついたように見えました。
確か猫は水が嫌いなんじゃなかったかなぁ、とボクは思いました。
猫と目線を合わせるようにしゃがんで、先ほどのように見つめあいました。
ドーナツの箱を濡れないように自分の膝で抱え、ボクはドーナツの箱を開けました。
傘を首で支え、左手と膝でドーナツの箱を支え、ボクは右手で箱の中から詰められていたティッシュをとりだしました。
そのティッシュを使って、黒猫の身体を拭いてやります。
黒猫は一度だけしっぽを横に振り、しかしそのあとは大人しく拭かれていました。

黒猫を拭き終わり、ボクはドーナツの箱を閉じます。黒猫をボクの傘に入れたままゆっくりと立ち上がり、ボクは使い終わったティッシュをポケットに詰めました。
黒猫がにゃあん、と声を上げました。
ボクはドーナツの箱を抱え込み、傘を黒猫にあげてその場を走り出しました。
汗と大粒の雨が混ざって、実家につくころには大変なことになっていました。
みんながボクをみて驚きました。
ボクは濡らさないように頑張ったドーナツの箱を取り出し、おばあちゃんに渡されたタオルで頭を拭きながら居間にいる弟たちに渡しました。
弟たちは歓声をあげて、ボクの手からひったくるようにドーナツの箱を取りました。
「ありがとう」と一番年長の弟がボクにいって、ああちゃんと兄貴として頑張っているんだな、と少しだけ感動しました。
ドーナツの箱は湿ってふにゃふにゃしていたみたいですけれど、中のドーナツはなんともないらしく、弟たちは喜々としてドーナツを口に運びました。

「あんた、そんなにびしょ濡れになって傘持ってこなかったの?」
「ああ、ちょっと色々あって」
「だからって何も傘忘れることないのにねぇ。あんたって相変わらずどっか抜けてるのね」
「母さんに似たんじゃないかな」
「ばかいってんじゃないわよ」

台所から戻ってきたお母さんは、ボクと少しだけ会話を交わして、おぼんに乗せて持ってきた麦茶をテーブルに置きました。
ボクは洗濯機に使い終わったタオルを放り込むため、洗面所へ向かいました。
廊下にでて洗面所へ向かいます。居間で響く弟たちの声は聞こえなくなって、ぼたぼたと、あたると痛そうな雨音だけが聞こえます。
ボクは洗濯機の中にタオルを放り込み、ドアが開きっぱなしの風呂場へ足を踏み入れました。
風呂場は湿気のせいか足場が湿っていて、靴下を脱がなかったから足の裏が冷たくなってあまりいい気持ちがしませんでした。
風呂場の窓を開けるとむわっとした風とともに雨の雫が顔にかかりました。
ボクは顔を窓から覗かせたけれど、視界はたくさんの雨で白く遮られてなにもみえませんでした。
耳を済ませて猫の声を聞こうと頑張ったけれど、雨音しか聞こえてきませんでした。
あの黒猫を、ボクは間接的に知っていました。

老夫婦に可愛がられていた一匹の黒猫。
首にぶら下げられている、鈴がぶら下がった赤い首輪。
今は亡き、黒猫への老夫婦からの贈り物。
病院で息を引き取った老婆。後を追うように息を引き取った老爺。
そんなことを知らずに、家で老夫婦を待ち続ける黒猫。
昼間になると、よく散歩をしていた老夫婦の姿を探してか、町をうろつく黒猫。

きっと、先ほども老夫婦の姿を探してうろついていのだと思います。




(雨は止んで、空は青く染まりました。
果てしなく広い空を見せてくれた少年に感謝する黒猫の気持ちを、少年は知りません。)



(終わり!)(うーん…あんまり書いたことない感じのにしたかったのですが)2008/02/08






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