「15万でどう?」その科白は、今にも雨が降り出しそうな、水気をたっぷりと含んだ灰色の分厚い雲の下で言われた。わたしは足を止めて、後ろを振り返る。後ろには、スーツを着た優しそうな男が立っていた。多分30代くらいで、普通に家庭を持ってもおかしくない見た目だった。ただ、薬指に指輪をはめていないから、家庭は持っていないのだと思う。男の言葉に、わたしは「なんのことですか、」と嫌悪感を露にして言った。男は「言わないとわからない?」と言った。性格が歪んでいそうな男だと思った。「すいません急いでいるので」そう言ってわたしは歩き出す。男が「ねぇ、なんでそんなに冷たいの」と言いながら隣を歩いてきた。気持ち悪いと思った。「ついてこないで下さい。警察呼びますよ」わたしが言うと「お金、欲しくないの?」と不思議そうに聞かれた。わたしは足を止める。止めるつもりなんてなかったけれど、止まってしまったんだから仕方ない。はぁ、と嫌みったらしく溜息を吐くと「いいね。きみみたいな子、好きなんだよね」と男がいった。いままでたくさんの男と話してきたけれど、この男みたいな男は初めてだった。「ほんとうに15万くれるんですか」と、わたしは聞く。男は「ほんとうだよ。なんなら前払いだっていい」といって、財布から出したたくさんの一万円札を無理矢理わたしの手に押し付けた。わたしの目に、男は天性のサディストのように映った。

「きみはまだ人魚姫なの?」
「違いますけど、」
「じゃあなにをそんなに躊躇っているの」
「人魚姫じゃないからって、人を選ばないわけじゃないんです」

それから黙って男をみつめていると「約束はきちんと守るよ」といわれた。「じゃあわたし終電までに帰りたいんですけど」意味もなく挑戦的に告げると「いいよ」と男は笑った。少年のような笑顔で、その笑顔が似合いすぎていて気味が悪かった。

「慣れているみたいだけど、いつも15万なんて馬鹿げた金額渡してるの?」

こんな男に敬語なんて必要ないと思った。男は「いつもはもっと安いよ。きみは特別」と言った。それから「前に一度だけ、20万をだしたことがあるけど、あれはいい思い出だった」と笑った。この男は笑ってばかりだ。

「きみは俺にどれくらい売ってくれる?」

生ぬるい風が男とわたしの髪を持ち上げるように乱して、それから大きな水が降ってきた。どうやら、雨が降り出したみたいだ。

「あなたに売る物なんてない、一時的に貸すだけよ。だから、最後にはきちんと元の状態で返してもらわないと」
「それ、約束?」
「そう」
「じゃあ守らなくちゃなぁ」

男は手にしていたビニール傘を開いて、雨からわたしを守るようにさした。

「きみは頭がいいね。この前の子は馬鹿だったから、酷い目に合ったんだよ」

手に握っている札束が、雨と湿気と、それからわたしの手汗を吸い取ってぐったりとしていた。雨はどんどん強くなって、風も負けじと強くなった。わたしも男も無言で歩いた。15万の使い道を考えたけれど、欲しい物なんてとくになかった。自分が何をやっているのかがわからなくなって、背中を汗がつたっていく感覚にぞっとした。



アスクレピアス



(終わり!)(違いすぎて悩む)2008/06/29





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