その日は火曜日で、なんというか、まぁ、普通の平日の日だった。
俺はいつも通り6時に起きて、顔を洗って朝飯は食わない。そのぶん昼飯と夜飯で補っているから問題はない。というか、むしろそれに慣れてしまったので、今更朝飯を食べると逆に不調になりそうな気がして怖い。そもそも朝飯というのは、ってあれ?なんの話してたっけ… ああ、そう。顔を洗って、朝飯を食わない。洗面所の鏡を見ながら髪を乾かし、ついでに最近サボっていたヒゲを剃って、起きたばかりのどこか惚けた頭のままで、6時30分には家を出た。

15分をかけて駅まで歩き、気だるそうにホームで電車を待つ。
やってきた電車はこんなに人が乗って大丈夫なのかと心配するくらい人が乗っていて、これから自分もこの中に混ざるんだと思うと嫌気が差した。次の電車にしようかといつも思うのだけれど、結局次の電車も同じだろうから仕方がない。無理矢理車内に入り、たまたま空いていた手すりを掴む。もう片方の手でしっかりと携帯を掴み、よしこれで痴漢に間違われることはない。本当に不便な世の中になったよなぁ、通勤時に電車に乗っていて痴漢と間違われるかもしれないなんて、不便を通り越して迷惑だ。そんなことを思いながらドアが閉まるのを待つのだけれど、ドアはなかなか閉まらない。
「ドアが閉まりますドアが閉まります」と駅員の声が響くのだが、ドアは途中まで閉まってまた開いたりの繰り返しでみていて苛々した。駆け込み乗車、やめろ。危ないし、苛々する。

地獄のような40分間の電車内をクリアーし、そこからさらに20分歩き会社に到着した。

「おはようございまーす」

家を出るときよりも大分、というかかなりマシになった頭で、席につくなり直ぐに仕事を始める。
パソコンに向かい合って少し経つと、入ったばかりの女の子が「どうぞ」と笑顔でコーヒーを配り歩く。
「ありがとう」と俺は返して、それからコーヒーを一口のんで息を吐く。親父くさいかな、この行動。
そういえばあの女の子、松島さん、だっけか。以前新入社員の歓迎会のとき、酔っ払って「あたしはぁ、男女差別とか大嫌いなんですよー。女の子がお茶入れたりコーヒーいれたりって、おかしいですよねぇー」とか口走っていたのだが、そんな気配を微塵も感じさせずに、笑顔でコーヒーを配っている。
すごい。女って怖い。
もちろんその話を聞いていたのは偶然にも俺一人であり、いや、正確にはその話を覚えているのは俺一人であり、聞いていた人は他にもいたのだが皆酷く酔っ払っていて、彼女の話どころか歓迎会の記憶さえも曖昧だと言っていた。
話した当人さえもそのことを覚えていないらしく、俺は少しだけ複雑な気分になったのを覚えている。




昼飯を食べに外にでて、中に戻ってきてまた仕事。
目がしぱしぱする。そりゃ当然か、一日中パソコンと向かい合ってんだもんな。
目薬、きれてんだよなぁ。
俺は目を擦り、「休憩、休憩」と呟いて小声で喫煙所まで旅にでることを決心した。

喫煙所までの道のりは険しかった。
まず、階段のところで課長がパソコンのマウスを武器に、殴りかかってきた。
俺は「ひあっ」と情けない声をあげて、思わず両手を前にだす。
幸運にも、というか、前に出した両手が課長の顎にヒットし、課長は階段からダイビングしてジ・エンド。
頭からは赤いブラッドが流れている。
ってあれ。これ、あれだ。今流行りのルー大柴の、ルー語。
聞いてる分には面白いのだけれど、自分が使ってみると果たしてこれでいいのかと不安になる。俺、ちゃんとルー語使えてるか…?
脳内でルー語の正しい使いかたについて考えを巡らせながら廊下をあるいていると、前から部長が、あの、くるくる回る椅子、デスク用のくるくる回る椅子で、俺にタックルをかましてきた。
「ほがっ」俺は二度目の情けない声をあげ、後ろに2、3歩よろめいた。やべぇ、腰、痛ぇ…。
腰の痛みに顔を歪めながら立ち上がると、横目で部長が再びタックルをかまそうと俺にむかって突っ込んでくるのが見えたので、わきによけると部長はそのまま直進に進み、壁にあたって床に転がった。意識はない。って、どんだけ強くつっこんだんだよオイ。
俺は倒れている部長の横をそろそろと歩き、「とんだサバイバル戦だぜオイ…」と呟く。なんだなんだ、喫煙所ではデスクトップを投げてくる社長でもいんのか?と、思いつつ恐る恐る喫煙所までたどり着く。そこには、うん、デスクトップを構えた社長が立っていて、俺を見つけるなり勢いよくデスクトップを投げつけて……「ってなんじゃそりゃー!!」


大声で叫ぶと、瞬間、俺に大量の視線が集まるのがわかった。
周りを見渡すと、そこはいつもの仕事部屋。自分の席。
「あ、すんません」といいながら周りに頭を下げると、笑い声が聞こえてきた。
課長は部屋の隅でコーヒーを飲んでいるし、部長は席を外しているのか今はいない。
社長は社長室にいるので、どうしているのかわからないが、どうやら俺は夢を見ていたらしかった。白昼夢、ってやつか?うわぁ…仕事中だぜ、今。
俺は自分自身に驚きながらも、疲れてんのかな、と首を回す。ぼきばきべき、と肩がなる。すげー凝ってる。サロンパス、貼るか。
時計を見ると5時。よっしゃ退社時間。残業はなし。
俺は喜々として帰り支度を始め、多少浮かれ気味の足取りで会社をあとにした。


「ただいまー…って、誰もいないのか」
頭をぼりぼりと掻き毟りながら、廊下を歩いてリビングダイニングまでいく。
家に着いた瞬間、一日の疲れがどっと押し寄せてきたような気がして、ぺたんぺたん、とだらしのない歩き方になった。

「おかえり」

は?と思って下を見ていた顔を上にあげると、リビングダイニングにある二人用の小さなソファーに、先客が、長くカールした金髪で青いワンピースを着ている8歳くらいの女の子が、座って、俺に、手を振っていた。

「…アリス?」

俺は思わず呟く。なんつーか、そっくりだったのだ。小さい頃に読んだ、ルイス・キャロルの名作、不思議の国のアリス、と、鏡の国のアリスに出てくる主人公の女の子、アリスに。
ちなみに俺としては鏡の国のアリスの方が好きである。チェスを基盤としたストーリーの進行具合が読んでいて面白い。それに、一見意味のわからない言葉をいっているように感じる各キャラクターたちもきちんと意味の通ることをいっていて、それがわかると、面白さ倍増である。
というか、アリスは原文で読んでこそ面白さが伝わると思う。
不思議の国のアリスの海がめの話のところなんて、翻訳者泣かせの文章、といわれているくらいだし、いくら原文の掛詞は日本文で別の洒落や掛詞に変換している、と言ってもやはりそれは原文ではないわけで。面白さも半減してしまうのではないのかと、思うのですよ俺としては。
だからアリスは是非とも原文で読んでみたい…と思いながら早15年。そういえば、アリス、どこ閉まったっけなぁ…。
って、今はそれどころじゃなくて。

「貴方の声、凄くきれいね」

アリスは突然そういって微笑んだ。俺は意味がわからない。顔は曖昧な笑みを浮かべる。

「声?ありがとう」
「ねぇ、どうして声が一人ずつ違うのか知ってる?」
「わからない」
「うふふ、あのね、なんでかっていうとね」

そこでアリスは言葉をきってじらす様に俺をみるので、俺は「早く教えてよ」とアリスが求めているであろう言葉を忠実に返す。別に、アリスの話なんてとくに興味はなかったけれど。

「あのね、声はね、心を表しているのよ」
「心?」
「そう。心。 心の形は人それぞれ違うでしょう?その違いが、声にでているのよ」
「へぇ」
「心が汚い人は、声も汚いの。心が綺麗な人は、声も綺麗なの」
「へぇ」
「貴方の声はとても綺麗ね。わたしもね、貴方みたいな綺麗な声になりたいの。だから、頑張って綺麗な心にするわ」
「綺麗な心って?」
「いい人のことよ、きっと。わたしも、貴方みたいないい人になるの」
「君は、そのままでも十分綺麗だよ、アリス」

俺がそういうと、アリスは嬉しそうに笑って「ありがとう」といった。「でも、わたしの名前はアリスじゃないの。ミストっていうのよ」そしてそのまま消えた。

「名前、アリスじゃないのか…」残された俺は一人呟き、それから彼女が座っていたソファーに座る。ソファーは少しだけ暖かかった。腰が痛い。

「ああ、部長にタックルされたからだっけなぁ…」



夢現の国のアリス
(夢の国、現実の国、今日の俺はどっちの住人だったのだろう)



(終わり!)(無駄に長い)(自己満足ですごめんなさい)2007/10/04















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